楷書体の稽古のために

6月13日に開催された「型稽古の会」に参加した。

平均化訓練の草書体〜楷書体〜行書体のなかの、楷書体を集中的に稽古する講座だった。

江坂さんいわく、平均化の、いわば基礎工事に相当する型のようだ。


参加申し込みの際、メールで質問させていただいたとき、江坂さんからいくつかのポイントになるところを返信でもらった。

その文章を、楷書体の稽古の理解とおさらいのために掲載させていただく。

(個人間のやりとりでの内容ではあるが、解釈や読み取り方はそれぞれの自由なので、敢えてアレンジなしに、そのまま掲載する)


1通目



「楷書体の難しいところは、一番弱いポイント(背骨)をみつけて、そこから動こうとすることなのですが、そのポイントは毎日変わるということでもあります。

ですから、極端な一極集中はかえって偏ることにつながります。

臨機応変と自分のなかの「快」の感情が結びつくことが大事ですね」



2通目



「一極集中も悪くはないです。
激しく集中することで、逆に集中できてない場所が浮かび上がってきます。

講座などで激しく集中すれば、自分じゃない人に、その集中できてない場所を指摘してもらえるので、それで平均化は進みます。

偏りがどのように生まれるかを知り、それをどう利用するか、

偏りを炙り出して見つめる、ということが(楷書体の)稽古ですね。」


ということを伝えていただいてた。


鮮やかに、大蛇が言葉のあいだを通り抜けるような文体だ(笑)。


静的にみると、“一極集中”という概念を巡って、一見矛盾するかのような応答にみえるが、実際身体を動かして取り組んでいる人なら、動的に理解されるのではないだろうか。

これは概念からではなく、身体を動かして観察していくなかで、理解されていくことのように思う。


自分なりにまとめると、


楷書体は集中していくことで偏った部分を見つけていくことなのだが、偏りはそこではなく、

“集中することで、逆に集中できてない場所が浮かび上がってくる。そこを炙り出して見つめる”


というところがポイントかなと思う。


そこから動いて草書体をやると、弱い筋への力の流れが変わっているわけだが、それはまた次の話。



日々の鍛練の参考にしたい。

捨てる

スワイショウをする。朝20分、洗顔してから、ただ手を振る。やってるあいだに気が付けば、おもいは勝手に浮かんでいる。思い出されることや、今日何をしようかとか、どこからともなく。

それらを抑えるでもなく、浮かんだら、身体のうごきに戻る。首や肩、鎖骨などに、手を触れて、筋肉のうごきを感じる。それを目で視ることはないけれど、手で触れる感覚で観ることができる。

準備はいらないし、何も持たなくていい。


からだで息を感じる、というよりは、じぶんは息であって、透明になったからだの壁を感じて、押しうごかし、はこんでいく。閉じたからだからのがれるように、息が出入りする。



そのうち筋がほぐれていることを感じる。心地いい。だんだんに振りをちいさくなり、止まったらしばらく、いまの身体内部の状態を感じるままにまかせる。

そのまま立っていると、立っているという感覚が新鮮に感じられる。いまこの場所に自分のからだが存在し、立っているということが。

からだに、沢山の余分なものを纏ってきたなと感じられる。

いまは必要ない欲から生まれてきたものたち、どれだけのものが溜まっていたのか、感じてみる